今回取り上げるのは広島の牡蠣です。広島は私の妻の出身地であり、牡蠣は私自身の大好物です。
牡蠣は世界中で愛されている海産物で、10年ほど住んだ米国オレゴン州でも食べる機会が多くありました。ちょっと驚いたのは、日本では冬の味覚のイメージがある牡蠣の旬が、オレゴンでは夏だということ。旬が夏であるのは、夏にアラスカからの冷たい寒流が流れ込み、冬には逆に暖流がメキシコ沖やカリフォルニアから流れ込むためです。
同じ牡蠣でも、気候風土によって様々に事情が異なるというわけです。改めて広島と広島の牡蠣について考えてみたいと思います。
広島といえば?
原子爆弾を投下された初めての都市であることは世界に広く知られていますが、広島というと、どのようなことを思い起こしますか?
厳島神社は海に建てられている珍しい建築物として、広島観光の象徴的存在です。多くの島々を抱える美しい瀬戸内海を思い浮かべる人も多いでしょう。その瀬戸内海が育む美味しい魚も魅力です。
呉という街を知っている人も多いと思います。広島市街から南東に25㎞ほどに位置する呉は天然の良港で、明治期から第二次世界大戦まで軍港都市として存在感を発揮していました。呉海軍工廠は東洋一の兵器工場として世界的にも有名で、戦艦大和もここで造られました。現在でも大型船舶の造船が行われています。
広島は地理的にも歴史的にも海の要素が色濃いといえそうです。
海から生まれた広島の街
現在の広島市街は、16世紀後半までほぼ海でした。戦国時代末期の当時、中国地方の大半を治めていた戦国大名の毛利輝元が広島城を新しい拠点とし、デルタ地帯を干拓し整備していきました。この築城工事は「城普請(しろぶしん)」ではなく、「島普請(しまぶしん)」と呼ばれたそうで、まずデルタ地帯に島を造ることが重要課題であったことが分かります。
統治者が福島氏、浅野氏と変わっても、干拓事業は続けられました。江戸時代後半になると、当時のオランダの最新技術を活用した治水技術も導入され、干拓は加速しました。
広島の名物(食べ物)
広島の名物といえば、お好み焼き、もみじ饅頭、広島菜漬け、尾道ラーメンなどを思いつきます。最近ではレモンも人気ですね。
瀬戸内海で獲れる四季折々の海の幸も魅力的です。そして、その中で主役の座にあるのが牡蠣です。牡蠣は全国の生産高の60%以上を占め、知名度は圧倒的です。
広島牡蠣が美味しい理由
広島湾を中心として養殖される牡蠣は、地域ごとに特長は異なりますが、一般的な特徴として、「殻は小ぶりだが身がみっちりと入っていて濃厚な味わいを持つ」とされています。
広島の美味しい牡蠣を生み出す理由は、広島湾の恵まれた環境です。広島湾は岬や多くの島によって入り組んでいます。そのため、波が静かで養殖筏が安全に設置でき、潮の流れが適度にあり、牡蠣の生育に適しているというわけです。
また、豊かな森を有する中国山地から良質なミネラルが広島湾に流れ込むため、牡蠣が好む植物プランクトンの増殖を可能としていることも重要なポイントです。
広島牡蠣の養殖の歴史
昔から良い牡蠣を沢山作るために、人々は色々な工夫や努力を続けてきました。
広島では、16世紀には既に牡蠣の養殖が行われていたそうです。干潟に牡蠣を直接置く、小石に牡蠣を付着させる方法からはじまり、干潟に立てた竹や雑木などに牡蠣を付着させ生育させる方法へと変わっていったそうです。昭和に入ると、干潟に高さ1.3mほどの棚を作り、これに貝殻をぶら下げて牡蠣を付着させる方法が編み出されました。
そして現在では干潟に棚を置くのではなく、竹製の筏からぶら下げる形で養殖されています。竹で組み立てた筏は風や波に強く、コストも抑えられることから普及し、漁場の沖合化、漁場面積の拡大を可能にし、生産量が飛躍的に伸びました。
広島牡蠣を世に広めた「牡蠣ぶね」
全国的に獲られる牡蠣ですが、広島は他の地域に先んじて養殖が始まり、江戸時代に至って生産量を格段に伸ばしました。地元だけでは消費しきれなくなり、広島の牡蠣は大消費地である大坂に運ばれ、消費されることになったのです。
冷凍冷蔵設備のなかった当時、牡蠣は貝殻に入ったまま船で瀬戸内海を渡って大坂に運ばれ、生牡蠣として販売されました。
江戸時代後期の19世紀に入ると、船内で牡蠣の料理が提供されるようになり、「牡蠣ぶね」として知られるようになりました。大変人気があったようで、昭和初期には150隻以上の「牡蠣ぶね」が営業していたそうです。
このエンターテイメント性が高い「牡蠣ぶね」は話題を集め、広島牡蠣のブランド認知に大きく貢献したにちがいありません。
牡蠣の色々
日本ではマガキ、イワガキが広く流通しています。広島の牡蠣でもあるマガキは基本的に冬が旬です。イワガキはマガキと対照的に夏が旬であり「夏ガキ」とも言われています。
他には、より小ぶりなシカメガキという種類もあり、「クマモト」の名で知られ、アメリカで高い人気を得ています。第2次世界大戦の後、熊本県からアメリカに輸出されていたものですが、現在の主な産地はアメリカの太平洋沿岸地域です。
近年、熊本県での養殖が研究されていて、オリジナルが復活しました。
欧米でも生食される牡蠣
牡蠣は世界中で採れて食されています。
人類発祥の地とも言われる、南アフリカの16万年前の貝塚から牡蠣殻が見つかっており、太古の昔から食されていたことがわかっています。3~5世紀頃のギリシャやローマの料理書にも登場しますし、「漢王朝時代(BC206~)に既に牡蠣の養殖があった」、「古代ローマのカエサルも好物だった」、「中世のイングランド王ヘンリー8世は毎朝70個食べた」など、多くの牡蠣にまつわるエピソードが残っています。当初は王侯貴族の食べ物だったのかもしれませんが、時代と共に庶民にも広まっていったのでしょう。
ところで、欧米ではシーフードを生で食べる習慣がほとんど無いのに、牡蠣は生食が定着しているのは何故でしょう?
今日の西洋料理はフランス料理から発展して来ましたが、そのフランス料理のルーツは、イタリア・フィレンツェのメディチ家からフランス国王に輿入れした王女の料理人とも言われています。広くイタリア人に好まれていた牡蠣の生食がそのままフランスに持ち込まれ、フランスやヨーロッパの人々に広まっていったということかもしれません。
牡蠣の美味しさが分かれば大人?
私が良く牡蠣を食べるようになったのは、妻が広島出身ということも関係していると思います。
彼女が高校時代を過ごした呉の海辺には、牡蠣の殻剥き作業をする「牡蠣打ち小屋」があり、冬の季節にその近くを通ると牡蠣独特の匂いがするらしいです。妻にとって牡蠣は身近で馴染みのある食材なのです。
私はというと、奈良の山奥育ちゆえ、子供時代には牡蠣など全く食べたことがなかったし、長じて大阪で初めて牡蠣フライを食べた時も、それ程美味いとは感じませんでした。
結婚して何年か経った時、保冷した牡蠣が広島から送られてきて、それを食べたのですが、その時に「こんな美味いものがまだ世の中にあったのか!!」と、大いに感動しました。
牡蠣には独特の苦味が混じった風味があります。子供時代には受け止められなかった味わいを、大人になってモノにできたという感覚を得ました。
以来、私は牡蠣の美味さに目覚め、牡蠣好きの妻と共に、北海道厚岸、サロマ、宮城の松島、広島、更には米国オレゴン州やワシントン州などの牡蠣を折に触れ食して来ました。冷酒や白ワインと共に楽しめばなお一層ハッピーになれるでしょう。
おわりに
こうして改めて広島を見つめ直していると、ふと、イタリアのヴェネツィアに少し似ているかもしれないという考えを思いつきました。
寒村から干拓によって発展した都市であることが共通していて、隣町ではあるが呉が大規模な軍港であり、アジア随一の艦船の製造力を有していたことも、地中海随一の海洋国家として栄えたヴェネツィアに重なります。
そして、広島の名産として日本中に知られているのが牡蠣です。広島牡蠣が名を馳せている理由は、瀬戸内海の入り組んだ海がもたらす地理的好条件だけではありませんでした。広島の街が、継続的な干拓工事でデルタ地帯に造り上げられたのと同様に、16世紀の頃から養殖の試行錯誤が繰り返されてきたためです。加えて、流通、マーケティングの工夫など、長い歴史の中で人々が工夫し続けた結果が、今の広島牡蠣の存在感を生み出していると感じました。
子どもの頃に食べ慣れなかった牡蠣の美味しさに、結婚の縁もあって目覚めることができたのは幸運で、感謝すべきことと感じています。これからも様々な美味しい牡蠣との出会いがたのしみでなりません。
この記事を書いた人
- 青井 三郎
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食いしん坊侍のスタッフ青井三郎。
戦後、奈良に生まれて大阪で育つ。6人兄弟の末っ子だったせいか、幼少の頃から食べることへの執着が強い食いしん坊だった。
野球少年だったが読書好きでもあり、日本や世界の文化や歴史に強い興味を持つ。大学時代には世界に触れたい欲求が高じ、1ドル360円の時代ではあったが、ヨーロッパ、南米、アフリカを3か月ほど巡る旅をした。結婚し東京で4人の子供を育て終えると、アメリカ西海岸のポートランドに10年間住む。
現在は、美しい海と温暖な気候に惹かれて沖縄に移り住み、気儘に読書や釣りやゴルフを楽しんでいる。
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